《大仏さまにギョッとする?》  勝手にコーヒーブレイク  (26)        2004.08

仏像といえば普通は、ありがたく拝むものである。それが古ければ古いほどハハーッとひれ伏したくなって、ご利益も増すというものだ。
なまじ、金ぴかに光り輝いていないほうが由緒正しいように感じてしまう。

ところが、世の中には仏の形をしていても、手を合わせる気が沸いてこないモノもある。新しくて、かつ、巨大になればなるほど、ありがたみは消えて、なにやら胡散臭くなってしまうのは何でだろう? 
その「変なもの見てしまった」という感覚は大阪万博の、かの岡本太郎の太陽の塔に通じるとか。
今でこそ、太陽の塔は30年余の風雨にさらされて、すっかり周囲の景色になじみ、何だか郷愁か哀愁の感を催すほどになったけれど、できた当時は賛否真っ二つの代物だった。
千里の丘にすくっとというか、ぬくっと立っている太陽君を見ると、我が青春の時代の空気が立ち上ってくる。あの頃の私は輝いていたのかくすんでいたのか、今となってはもはや思い出せないくらい彼方の出来事になってしまった。

その仏像の話だけれど、今回の本は誠にアホらしくもげらげらと笑える、とても面白い本だ。今まで紹介した本の中ではいちばん笑った。くれぐれも電車の中では読んではいけません。

『晴れた日は巨大仏を見に』は、馬鹿デカい仏様を見るために日本国内、北から南へ、16体探訪ルポである。だれでも、一度は、何の予期もせずに、山の上や街の後ろにいきなりニュッと現れた巨大な観音様にギョッとした経験があると思う。
私は子どもの頃?福井の従姉の家に行くとき北陸線から見える観音像にびっくりしたことを憶えているが、あれはどこの何者様なのか、今インターネットで調べてもよくわからない。

「必然性のないものは存在感が増す」
何のためにここにあるのか理解できないモノほど、「居るぞ」という威圧感が感じられてギョッとする。床の間に洗濯機があればびっくりするもんね。

日常風景の中にある巨大仏「マヌ景」(間が抜けた風景)は「見てはならぬモノを見てしまった」という衝撃感がたまらないという。
普通の人家の上にニュッとそびえている真っ白な観音様。ウチの近くの駅前の40階建てマンションでもかさ高くてうっとうしいのに、あんなもん、ご近所に立ってたら、そりゃ目障りなことだろう。

巨大仏は宗教施設以外にレジャー施設の付随物であったり、個人の成金製造物が多く、もちろんガイドブックにも載ってなくて、現在では閑散、寂れ状態がほとんどらしい。昭和から平成に変る頃に相次いで建立されたので、バブルの流行だったのかもしれない。

この本の中では私が面白かったのは牛久大仏と会津ロリータ慈母観音。
写真を見るだけで、なんだかしげしげと見入ってしまうほどのインパクトがある。
是が非でも、自分の目で実物を見に行きたいとまでは思わないが、高さ120メートルの牛久大仏だけは見てみたかったなぁ。
盛岡の帰りに牛久の友だちの家に泊めてもらったけど、大仏の話なんて今まで聞いたこともないし、やっぱり地元では完全に無視されている存在なんだろう。
いずれ年月が経ち、これらの巨大仏たちも自力で立っていられなくなって、いっせいに壊される時がきても、たぶん、ニュースにもならないだろう。

30年以上もたてば、ほとんどのモノが古めかしくなってしまうのに、太陽の塔だけは、過去も現在も未来も知らんこっちゃとばかりに、ただそこにあるという存在感を保ち続けている。岡本太郎はやっぱり偉大な芸術家だった。

        『晴れた日は巨大仏を見に』
                              宮田 珠己  白水社

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