《「書ける」人になるために》   勝手にコーヒーブレイク  (20)      2003.02

これであなたも美文家になれる。

伝えたいことがある、書きたいことがあるのに、上手に文章をかけないという人は必読。別に書きたいこと、書かなきゃいけないことなんか何にもない、という人は読む必要はありません。
文学作品や論文は別として、普通の文章(このコーヒー…など)、説明文や報告文、投稿文、旅行エッセイなどは私たち一般の人間も書く機会は多い。       

良い文章とは何か。
感動させることが目的ではなくて「ためになり、面白く、わかりやすい」文章のことである。この本の前書きを読むだけで、すぐに血となり肉となり、新鮮な血液が脳の隅々まで行き渡って、たちまち流暢な言葉を繰り出せる!
いや、そのような気がするだけです。

昔は原稿用紙に書き始める前に、頭の中で充分に構想を練ってから、と言われていたが、今やパソコンの時代だ。とにかくメモ代わりにパソコンやワープロに打ち込んでいって、あとから推敲や書き直し、見直しをすればよい。
ワープロが出始めたころは、キーを打ち込む作業の間に書くべき内容を忘れるから、ワープロは単なる清書のための道具だったときもあった。
私も慣れるまでは使いにくかったが、今はとにかく打ち始める。結論や後半を先に書いておいて、出だしはあとで付け足すということもある。
現にこの本は読みながら紹介文を書いている。今、16ページ目を読んでいる。
(そんなんでよう本の紹介文なぞ書けるなぁ)ごもっともですが、
とりあえず書き始める。
そのとおり、私の方法は間違ってなかったのだ。

ただし、感じたことをそのまま書いても、あくびが出るだけの文章しか書けない。自分だけのメッセージをこめること、どんな日常的なありきたりの事柄も視点と切り口で新鮮になり、人の目に留まる文章になる。
人とおんなじことを言うてたんではアカンというわけですね。

プロの作家は辛いことや苦しいことがあってもみんな話のネタになると感じてしまうんだそう。私も聞こえなくなったことや、我が家の犬が死んだことなど、気持の片隅で、このことをエッセイ風に文章を書いていたりする。
心底絶望に陥ったら、とてもそんな余裕なんてないと思うけど、けっこうツライときでも、もう一人の私が冷静に眺めているのを感じる。
実際に、すべてを書くところまではなかなか実行できないが、面白いことも腹の立つこともすぐに頭の中で文章に仕立てている。旅の話や雑記、短文、3行日記など、会報やホームページ、メーリングリストに書いたりする。

けれども、たった一つ書きたいと思わないものがある。それは自分史だ。
ドラマのような人生を送っても作家になれないのと同じで、必ずしも波乱万丈の人生と面白い自分史は一致しない。
私に並みの人よりはネタがあるとすれば、それは聞こえなくなったことと、そして、音に甦ったことくらいだ。
波乱万丈のストーリーもなければ、稀有な体験もない。せいぜい1500字の短文寄せ集め人生だ。

数学者のピーターフランクル氏の挿話が出てくる。
『人は有名になると、悪い方向に変わる危険がある。だから僕は大道芸をやめない』
私が今まで聞いた中ではフランクル氏の講演が最も秀逸であった。
作詞家のもず唱平氏も言っていた。有名になってベンツばかり乗り回していると、庶民の気持ちはわからないから、電車に乗って人の話に耳を澄ますと。
文章も話も、読む人や聞く人に分かりやすく、面白く、いつも謙虚であらねばならない。

実際に文章を書くときのノウハウ、比喩や引用の用い方、脱兎文、竜頭文、アリバイ文など例文も豊富でわかりやすい。
私の文章で大きな欠点はアリバイ言い訳が多いことか…書くことに興味はなくても、読むことが好きであれば、文章のしくみや解説がわかってこれも面白かった。

さて、本を開いてキーをたたきながら、1冊読了しました。
読めばたちどころに上手い文章が書けたか?まさかね、そんなに甘くはありません。
なるほどと感心するばかりで書く技術は向上しない。
マニュアルをいくら読んだところで、パソコンが上手にならないのと同じである。

良い文章とは結局は自分なりのメッセージを捕らえること。残念ながらそれを捕まえる方法は載っていない。
テレビなんかに現を抜かしてないで、しっかり考え抜くことだって。それができるんやったら苦労はないか・・・

文章は終わり方が大事。ぜひ、皆さん、この本を読んでACITAの「超」原稿を書いてください。

では、健闘を祈ります。

「超」文章法   野口悠紀雄           中公新書

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