《地味な人生もめげず》   勝手にコーヒーブレイク  (19)  
                                              2002.11

毎回本のことを書いているが、最近、小説はめったに読まなくなった。
同じつくりものといっても映画はそこそこ見ているから、これはたぶん想像力の減退に関係あるに違いない。
活字や文章から情景を思い浮かべるのがしんどくなっているんだろう。

人間の身体というのは手足であろうと脳であろうと使わなきゃ「廃用性萎縮」するらしい。ぷりんぷりんの灰色の脳細胞が、賞味期限過ぎたあんこみたいにゴワゴワしてくる…
こんなことではいかん、いかん。想像力を鍛えないと夢も見られない。

10年くらい前はよく時代小説を読んでいた。
池波正太郎の「剣客商売」 平岩弓枝の「御宿かわせみ」のシリーズは読み尽くした。
現代小説は読んでいると何かと身につまされることもあってちょっとツラクなることもあるけれど、時代小説は純粋にエンターティンメントとして楽しめる。でもこっちも老獪になってきたのか、ただの活劇や世話物では、あ、そうですかと思うだけになってしまった。

乙川優三郎の時代劇の主人公はどっちかというと社会の落ちこぼれというか、不運の人、それも中高年が多い。全体としてはかなり暗い色調である。

「広い海を眺めていると不思議とほかに道はなかったのだと諦めがつくのである」仇討ち果たして35年ぶりに国許に帰ってきた初老の武士。部屋住みのまま老年にさしかかる男の話など。
そんな状況の中にあっても、主人公はこれでよかったのか、ほかに生き方があったかもしれないとはうすうす感じるものの、決してグチも言わないし人生をうらんだりはしない。予想もせずにリストラになった、運命が狂ってこんなはずではなかったのにとか、今の自分を思うこともあるかもしれない。

ただ、どんなに貧乏でも不遇でも、どこか明るくひょうひょうと生きている感じがある。
物語のラストは、この先も新たな展望は開けないかもしれないが、いくばくかの希望は捨てずに生きていくという風に終わる。
ああ、たぶん大丈夫だろうな、というように終わる。もう朝日のごとく輝くことはないだろうが、やわらかい薄日が差してくる。
自然描写も舞台の書割のように派手派手しくもなく艶やかでもなくて、すぐそこにある等身大の自然が描かれている。
「枝はどれも細く、疎らに咲いた薄紅の花も愛でるほどの華やかさはない」

人はどんなに恵まれた生活を送っていても何かしらの刺激を求めてしまうとか。そして、他人から同情されるような境遇であっても、自分を見失うことなく気高く生きること。
結局は個々の感じ方なんだろうが、清清しく生きてゆけたらと思う。ま、ムリだけど…
    おく う
  「屋烏」 (短編集)     乙川優三郎        講談社文庫

 

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