《クイールの犬生》   勝手にコーヒーブレイク  (17)        2002.05

盲導犬を目にする機会が増えてきた。少し前までは、「盲導犬って、エライねえ、賢いねぇ」と言われたが、最近は「盲導犬って厳しい訓練を受けて、ずっと奉仕生活で普通の犬より寿命が短いらしい、かわいそう」という見方もある。
 
盲導犬は「産ませの親、育ての親、しつけの親」がある。そして、実際に盲導犬として仕事をする3歳から8歳を除けば、あとはそこいらの駄犬よりはかなり幸福な犬生を送っている。盲導犬として生きている間も見た目よりは楽しくやっているらしい。

盲導犬の訓練を受けるときも、人間の目から見れば、ずいぶんと厳しく訓練されているみたいだが、犬にとってはゲーム感覚なんだそうである。
まっすぐ歩くこと。曲がり角や段のあるところを教えること。じゃまなものがあれば止まる。犬はそれをゲームとして楽しんで、人に教える。「グード、グード」とほめられるのがうれしくてまた、がんばる。このあたり、今どきの子どもも、上からガミガミ指導するだけでは動かないのは、ヒトでもイヌでもいっしょかも?

 『盲導犬クイールの一生』は写真と文章で構成された読みやすい本である。絶対泣けるという本でもある。ましてや、犬を飼っている人にとってはもう、写真だけ見ても涙がにじんでくる。どこを読んでもじんわりきてしまうという、人前では読めない本である。
仔犬のときのかわいらしさは言うに及ばず、「どんなときもふたりはいっしょです」の雨の中、野原の道を傘をさして歩いていく後姿のモノクロ写真。本を開いている間、いつものどが熱くなった。

ウチにもレオという10歳のシェットランドシープドッグ(ミニコリー)がいる。いや、いたというべきか。
犬の10歳はもう、高齢期に入る。落ち着きがなく、やんちゃの性格は変わらないが、ものすごく臆病になった。以前はフローリングのリビングもパタパタスイーッ、ホイホイツルーリと歩いたり走ったりしていたのに、今はそろりそろり、抜き足差し足でも1歩も歩けない。裏のテラスからリビングに上がり損ねたときは思わず滑ってしまったのか、そこで腰を抜かしてしまい、へたり込んだまま立ち上がることもできなくて、「お前、年取ったのう、情けないで」と夫に笑われて、上目遣いの眼を恨めしげに向けるばかりである。

クイールの写真にもあるが、あごをぺたんと床にくっつけて、上目遣いに見上げる、もの欲しそうなすねているような眼をしているのが一番カワイイ。

5匹の兄弟とともに生まれたときクイールのお腹にはカモメの絵のような黒い模様がついていた。そして、盲導犬になるために生後43日目で育ての親のパピーウォーカーに預けられる。
家庭で人間の愛情をたっぷりと受けて過ごすこの1年間が、盲導犬にとっては一生で一番幸福なときかもしれない。「この子は何があっても叱らないでください」と、犬の言葉が読める訓練士の一言である。
1歳の誕生日になるとパピーウォーカーとも別れて、いよいよ、関西盲導犬協会の訓練センターでの生活が始まる。
しつけの親である盲導犬訓練士という職業は希望者は多いが、研修3年目で8割以上が脱落するという厳しい現状らしい。訓練士も犬が好きなだけではとても無理なのだ。晴れて盲導犬になれる犬も、訓練士も、双方なかなかに狭き門なのである。

クイールは素直さの光る犬、強烈な個性がないという盲導犬にとっては最良の資質があったという。
1年半の訓練の後、ようやく、一人の視覚障害者の男性とともに盲導犬として人生の、イヤ、犬生の黄金期を迎える。
以後、盲導犬として3年働いた後、引退するには早いため、盲導犬普及デモンストレーション犬として、第二の犬生を送ることになった。
11歳になった頃、人間でいうと還暦の頃、クイールは初めのパピーウォーカーの元で、過ごすことになった。幸せな老後を迎える予定であったが、すでに、身体のあちこちがやられていた。
1年後、「天国に行ったら、仁井クイールですとハッキリ言うんやで」…
12歳と25日であった。

『盲導犬クイールの一生』  石黒謙吾・写真 秋元良平 文藝春秋

付記 この原稿を途中まで書いていた頃、飼犬のレオがあっけなく死んでしまった。
少しずつ身体が弱っていたこと、白血病?と言われたことなど、クイールと状況がよく似ている。原稿も自信がなかったが、他に本も読んでいないし、何とか書き終えた。    

レオのことをそれほどかわいがっていたわけでもないが、いつもそばにいたものがいないというのは寂しい。裏で洗濯物を干したりするとき、うるさいくらいまとわりつき、チャイムが鳴ればしばらく吠えて、合図してくれた。
帰宅して門扉がガチャッとなればワンワンと散歩をせがんだ。死んでから、よその犬の鳴き声がしてもはっきり声が違うことに気づいた。人工内耳の半端の耳でも鳴き声を区別できていたのだと。
この寂しさに慣れるまであと何日何月かかるのだろうか。

たかが犬のことに…と思っていたが、人は、経験しないと想像できないことがたくさんあるのかもしれない。

今回、片っ端から送りつけた私のメールは、パソコンの前で何人も泣かせたらしい。これほど犬が好きな人がいるとは思いもしなかった。そして、多くの友人に慰めや共有感をもらった。

今後、もし誰かの犬が死んだら、その犬のことは知らなくても、犬を思う人の気持ちは少しはわかってあげられると思う。レオの死が私にそのことを教えてくれた。
パソコンの横でレオが私を見ている。「いつか、また、いっしょに散歩に行こう」と…
 

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