《中年を生きる》 勝手にコーヒーブレイク (8) 2000.02

曽野綾子はクリスチャンである。日本財団の役員もしているし、何となくお堅いイメージ、高潔無垢の近寄りがたい感じがあったが、最近、波長が合うというか、うなずくことが多い。これも私が年食ったせいかもしれない。

まず、中年という年代は何歳ごろをさすのか。

人生死ぬまで青春なんていう人もいるが、私はごめん。青春なんて懐かしい以上に愚かしくて、10代のときの日記の処分をどうしょうかと、いつも気にかかっている。ふたを開けたらそれこそアホな私が、これでもかとばかりにぞろぞろ飛び出してくるから、恐くてさわれないパンドラの箱みたいなもん。今は押入の奥でおとなしく眠っていただくのみ。私が死んだら読まないで処分してや。そんなら元気なうちに自分で捨てればいいものを、それももったいない?

ともかく、中年は中年でいいや。中年とは30代後半から50代までということなので、私も中年真っ盛りといったところ。

中年世代はだいたいは結婚して、りっぱであれ、こわれかけているにしろ家庭を持ち、子供の親となっているだろう。子供が生まれるとき親は健康な赤ん坊でさえあればと願う。生まれるときから、この子は一流大学に入ってええ会社に勤めてほしいと考える親なんていないだろう。

健康だけで良かったのが、やさしくてよい子になってほしい、勉強がよくできて、一流大学へと、親の欲はエスカレートするばかりになっていく。

曽野綾子はいう、「親も子も警察の世話になるようなことをしなければ、まあまあいい親であり子供である」

こういってもらえたら、出来の悪い子供を持つ親は救われる。私も少し救われましたね。りっばな親でなければという呪縛からも逃れられる。どうしようもない親でも子は我慢できる。

「お金はあり過ぎても無さ過ぎても人をしばる」
貧乏でも幸福な人生を送れると言わないところが普通感覚の人なんである。

「ちょっとだけ好きなことができる程度のお金があるという状態が最高」

なんだそうである、けれどもそのお金は
「たとえ親からもらったものでも、人からもらったものは不自由」
で、やはり自分で稼ぐに限る。ただし、
「貯めるということは単純に体にも良くない」

あまりこつこつと生まじめに貯金するのなんかやめましょう。あくせく働いて、子供に過分な教育費をつぎこんで、あげくに憎まれ口たたかれて、ストレス貯めるのはやめましょう。まあ、そうは簡単に割り切れないのも、これも中年。

いくらもっともらしい御託を聞かされても、頭で理解できても、
「人聞は自分が体験したことしかわからないものだ」
想像はできても(近ごろは想像もできないジコチュウの人間が多いけれど)自分のこととして考えることはとてもむつかしい。なんぼ体験談を読ませても、聞かせても無駄だというのだ。戦争反対も阪神大震災も、吉野川可動堰反対(今日の朝刊に載ってただけです)も障害者のことも、頭で理解しているつもりでも本当にはわかっていないのかもしれない。

そして、たとえ、自分の目で見て聞いたことであったとしても、
「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は見たいと欲する現実しか見ない」
と2000年も前にユリウス・カエサルが言っているとおりである。

『中年以後』  曽野綾子  光文社
 

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